ノルウェイの森、村上春樹の長編小説。
この長編を一冊読んだら村上春樹の作品を感じたことになるだろうか。
僕は、文学というものが人の心になにか影響を与えるということに疑いを持ち始めている。
純粋な子供のように、与えられたものを素直に感じ取ればそれですむのかもしれないが、じっさいに僕と本の間で起こっている出来事はもっと複雑になっている。
同じ本でもいつ読んだのか。少年期か青年期か、もっと年を取ってか。仕事が終わった後にビールを飲んでから読んだ時かもしれない。不安を刺激されてなにかを感じることに億劫になっているのに無理をして読んでるかもしれない。
そういう読んでいる僕にだって事情があり、せっかく本を手に取って読み進めているのに(それは根気のいる作業を伴う)、本の方から「あなたはまだ私を読む時ではないようです」とはじかれてしまうかもしれない。
ある種の本は一生のうちにどのタイミングで読んだのかによって意味が変わっしまい、本に閉じ込められた情報を誤った方法で読み込んでしまう。
今回の読書にその誤りがどのていど含まれてしまったのか。正確に読み込めたのはどのていどなのかそれが知りたいのに、どうやらそれについてわかる人はこの世のどこにもいない。
きっと作者の村上春樹にもわからないことだろう。
つまりそれだけこの小説は実態の伴わないものを描こうとしている。
主人公のワタナベは世間とどうやって関わっていくのか分からなくなっていく。
まわりに登場する、ヒロインや親友、同居人、先輩、友達、この人たちも何かが不自然になっていて、急に世界からいなくなっていく。
この作品はそうやって突然この世から消えていく人が多い。あるいは舞台から降りていくだけかもしれない。
そうやって最後に残ったふたりに視線が向けられて終わっていく。
ざっくりとした雰囲気とあらすじはこんなかんじ。
上巻を読み終わってから妻と話をしてると、なんとなく村上春樹は子供がいないような気がした。調べてみると事情は公表していないが(する必要も全くないが)子供はいないそうだ。
じっさいに、子育ては泥まみれの汚い部分と生き生きとした生命力に圧倒されることがある。こっちが衰弱するが、こんな力が人間には備わっているのかと驚愕する。生々しいエネルギーには良くも悪くも品性はない。それが理性の発達とともに生々しさが薄らいでいく。
この作品にはそういう生々しさを排除したところの話をしていると思う。
なので僕とこの作品との会話は「なんで人間の生々しさを見ようとしないんですか。それにいったいなんの意味があるんですか。だって、それがあるのが当たり前で、それをないと仮定して話を作ったところでどんな意味があるんですか?」
「人間に野性味があるという前提を排除してもそれは、もし月にうさぎがいるならどうやって生活しているのを本気で討論しているだけで、空想を楽しんでいるだけじゃないですか」
たぶんこの空想を楽しむというカギを持たないとこの物語の入り口は開かないんだろう。
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